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仮想メモリ
久々に想うこと。
最近、ありがたいことに、業種を問わず
たくさんの方々とお会いさせて頂いている。
ん、久々に想うこと。
それは、みなさん、「人」の話をされること。
自分の「事」にひとの「こと」。
それに尽きる。
色々な話題も多いが、障害者とアートに関しても多い
特に、片山が特化しているように思うのだろう。
でも、僕としては、すべて「ひと」の話をしているように思う。
アートと言われて明快な答えを持っているかたなど多分いない。
あなたにとって、プロとはと聞かれて、全ての方が「違う」ように。
アートに関しても、深堀するだけ、「ひと」を掘っている。
障害者に関してもそうだが、お話しした中で、まだここで止まってるんですね〜
と話した事がある。
未だに、障害者の文字を、障がい者だとか、障碍者だとか、
区分する方がおられるが、読めば「しょうがいしゃ」なのである。
この事実と対峙する勇気を先に抱いてほしい。
「害」は確かにマイナスイメージではあるが、
「がい」に変えてありがとう!!
なんて話もあまり耳にしない。
小手先の甘さが浸透力を弱め、ひとつのコトを達成したと勘違いし
文字を変えた事に集中し過ぎるあまり、現実が遠のいているように感じる。
その次に行きたいのにも関わらず行けない時がしばしば。
表面的な鋭さがあるのならば、
その表面をはいだ中に鋭さを切り込んでほしい。
何を進め、何を変えていきたいのか、何を着地点とし、どこまで関わるのか。
アートに関してもそうだが・・
アートしてます!!!って方にお会いした事がない。
周りがアートを示唆した。とか。
なになに派です!!と公言するとか。
そもそも、アートに境界線はない。
奥さんがつくってくれた、お弁当もアートであり、
こどもたちがチョークで道に描いたものもアートであり、
おばあちゃんが、ジーンズが破れているのをパッチワークしてくれたのもアートである。
自然の雲が常に変化する事もアートと言ってしまえば、どこに着地して良いものか、
人がつくった原始的な構造から、ARTは視覚芸術のはじまりと考えれば、
観たもの感じたものは、その時点で個人の解釈のもとARTに変貌する。
そもそも、産まれるとき、死ぬときも、アートと言えばアートになってしまう。
生きている「ひと」そのものがアートにもなりうれば、
いつもお話しさせて頂いている事が、そもそもアートのはなしを交えていることにもなる。
全体のブランディングやマネジメントのうまい方もアート性が強いといえば強い。
そこには、しっかりとした対価が生じるが。
障害者アートもその部類だが、
そもそも、僕の親世代(60代〜)の方にはとっても分かりやすい標語だろうとも思う。
ひょっとしたら、この世界に従事(親しみ)が無い方にとっては
とても、特色のある、「とっても頑張っているアート」に違いない。
多勢に無勢ではないが、この言葉は、実は明るい捉え方もされている時がある。
モノは捉えようで、どのようにも変化し、結末もすこし風味が違ってくる。
大波に乗りながら、良いところで、しっかりひっくり返す心意気が
本当の流れに乗ることのように感じられる。
障害者スポーツは列記とした「枠」が存在している。
これは、その方の特有(特性)の中でルールが存在する。
このルールが圧倒的にきめ細やかであることが、
言葉として障害者スポーツを自律させたのだと考えられる。
これに関しては、公平感(フェア)に伴った姿勢だと解釈するが、
障害者アートは全くの別物である。
これは、出来た作品や創作された過程を考えても歴然の通り、
「絵や創作物」にルールや制約としての公平感(フェア)は存在しない。
僕が円を描いても、ピカソが円を描いても、そこには同じスタートラインは生じていない。
競争感と統一感の力が弱く鈍い。
それを持って言えば、やはり「とっても頑張っているアート感」は否めない。
議論をしていけば、なんと視野の狭い価値観で連動されているかが感じとれる。
そんな状況を生業にはしにくい構造なのである。
良い絵と素敵な絵も実は一緒で、ある価値観から、人を動かす絵も現れる。
それはもう、別物で存在し、別物で動き、別の方がマネジメントされる。
アート業界と言う選択に進められる。
想う事を、ダラダラと書いてしまったが(苦笑)
人を想う事は、それ相当の厳しさと解釈とシンプルな目が必要であると想う。
厳しい良い方だが、世の中が厳しいのではなく
自分が厳しいのではなく
厳しいものは厳しく
甘いものは甘い
淡々と直視し対峙し
出来る事だけ、出来るだけやってみる価値はどこにもたくさんある。
先ずは、シンプルに「する」ことや「しない」ことを
明確にしておく必要がある。
僕の残りのメモリもそんなに多くない
だから、「する」「しない」は即決できめたいものである。
仮想メモリが増える事で、現実にある容量を実行してないにもかかわらず
増やし。減らしていることに気づく。
そんな時間があったら、親に電話したり、こどもと話したり
近くにある花をみてみたり、靴ひもをもう一度しっかり結んだ方が
うまく進む。
そんなことを想う日。
今日も、ダーと書いて、しまいました。すみません。
誤字脱字も残しておきます、これも、僕のアートとして