何を望み 何を得るか そして何を成すか

 

 

未来を意識つくることが「今」成すべき最大の候補地。

昨今のコロナ等の関係もあってか、「考える」時間が深くなったように思う。

僕の生い立ちの中で、深く考えた時期は3度あった。

1度目は高校を退学したあとの10代、

2度目は阪神淡路大震災の20代、

3度目は大学に入学した30代。    

共通する点は、自分との対峙する暮らし、社会と自分の距離を図るといった具合いの、

自分の望みとは、人の望みとは、自分のしあわせとは、

人のしあわせとは、充実した自分とは、

自分の「夢」とは、人の夢とは、

特に僕がこの3度の思想の中で意識した事は、

「自由を得る、自由を勝ち取る」本当の自由とはなんであるかを学んだように思う、

自由学とは、自由帳が白紙であることの苦痛を感じていた。。

 

タイトルの何を望み 何を得るか そして何を成すか

これは、仕事やライフワークに対するシンプルな疑問でもある。

特に、仕事として、障害のある方の表現活動に従事しているが、

絵を描く為の施設を思いついて作ったのではない、

何も無い場で、人とひとが会話の中から「自由」を得たのが表現であり、

意識の転換とでも言うべきか、

それまで障害のある方の働く場を下地に進めて来た身として、

明るい兆しがみえる「表現の自由」に救いと未来を感じたのだろう。

それこそが、冒頭の未来を意識つくることが「今」成すべき最大の候補地。に直結する。

 

障害のある方の生き甲斐とは、障害のある方の前に「人」である以上、

人の生き甲斐とはを思慮深く考慮する。

根底にある、欲求や悦び、悲しい事やどうにもならない思いなど、

みなフラットに同じである、ただ社会基準として判断したときの物理的な生きづらさ、

ある意味の困難はあれども、素直に楽しいこと楽しみな事は世の中にちりばめられている。

ある方が、人にはお役目が皆それぞれにあると言われた、

それに適したことにすっと収まることで、

周りに素敵な影響を与えるのならば、

それはもうその人の「仕事」と成すのではないだろうか。

世の中に必要でない人は誰もいないが僕の土台にある。

 

ある時、ジョブコーチと言う資格をとった事がある、

障害のある方に適した仕事を見極め企業の中継ぎとして、活動する資格だったと思うのだが、

僕が担当した人は、ボルトのねじをとても器用に回しながら締める、

これは普通の人の倍速に近い、その時感じた事は、

とても笑顔でボルト締めをしている、その様子をずっと見ていた時にふと気付いた事があった、

これを仕事にしても良いのか、ボルト締めはその方にとって楽しい望みを、

ノルマと言う仕事に徹して「自由を奪って良いのか」一件見落としがちだが、

この人は「仕事をしたいのか」結果、僕はボルトの工場に連れて行かなかった。

今にして思えば幼い判断だったかもしれないが、

その方の「笑顔」は「仕事で得る笑顔」では無いと感じた。

本質を見抜きたかった。

 

言葉が発しにくい人、身体的に動きがとりにくい人、

視覚に聴覚色々あれども、みな人であり、みな普通である。

 

だから、何も大げさなアクションをとる必要はないにも関わらず、

大げさなアクションが社会を変え、人を変え、良い事をしている人が多くなってしまった。

その人自身は「何も変わりたくない」かも知れない、

これでは不憫だろうと変える人の多さに言葉を失う。

今一度、不憫と不便の違いを解きたい、不便であるから考えるのであって、

不憫では世界は変わらない。

どこから発信したかは、何を得て来たか、そして何を成すかにかかっている。

 

その人は何を望んでいるのか、その人は何を得たいのか、その人は何を成したいのか

僕がしたいことを意識しているのではなく、僕が得たい事を得たいのではなく

僕が成したい事を成しているのではなく、

「その人」それが僕のメインテーマのように感じる。

 

仕事とライフワークに、ちょっとした一貫としたお題があれば、    

ちょっとだけ充実するかもしれない。

まだまだ、豊かになるために、哲学や勉強をし人間力を高めたいもの。

 

この時世は、僕の人生の中で4回目の40代の深く考える時期に来ているのだろう。

 

 

しんかわ