本質

 

本質

 

色々考える。

 

最近、障害のある方に対して、色んな、カテゴリーが産まれている。

良くも悪くも。

 

先日、急遽、10歳上の、いとこに会いに広島に行く。

いとこは、小さいときの高熱の影響で、耳が全く聞こえない。

子どものときから、一緒に会っているのでなんの変わりもない。

ただ、ごく自然に時が進む。

でも、小さいときに、母親から、「耳が聞こえない」と言う事を

しっかり教わった記憶がある。

真っ直ぐ、隠すのではなく、本質を教わった。

それは、初めて、違いを教わった日でもあった。

違いがある事を、素直に認める事で、

それは、劣っていることではないことに気づいた。

だから、僕ができる事を、自然に僕が代わりにした。 

 

夏に、子どもたちで、家族旅行にいった。

電車の中で、片腕がない方に出会った。

子どもたちに、見せないようにするのではなく

片腕がない方の本質を伝えた。

 

カテゴリーをつくるのは、悪い事ではない

でも、何かが、ぼやけているように思う

本質をぼかしているようにも。

カテゴリーをつくらなければ、身動きができない体質は好きではない。

 

運動会では、一着・二着が消え、色別でゴールする

本質の違いから、目を背けているような。

これでは、得意も見つけられない、互いに補う事もできない。

 

ただ、違いをみとめ、ごく自然に補い合う世界観を

本質から目をそらしては、事実を改善する前で停滞している。

 

妙なやさしさを育むのではく、やさしさの、その向こう側を

教えなければ、本質と言う強さに、ぶち当たらない。

 

ぼやけた世界ではなく

時として、本質を見抜き、応用が効く目を

育てなければならない。

 

大枠の言葉で「隠していては」

本来ある姿で、互いに補う事は、むつかしいように。

 

そんな事を、帰りの電車で想いに耽ていた。

 

 

しんかわ