「佇」

 

久々に、障害のある方と題した作品をみる。

長い間、じっくり見る事がなかったような。

この世界は、完全にフラットのような気がする、作品だけみれば

タイトルもカテゴリーも無ければ、「人」の創作物そのもので、進める。

作品には、そのような平行的な力がある。

そのなかでも、突出して、良い意味「ヤバい」ものは、

だれも放っておく訳もなく、各地の場で作品が開示されていく。

ただ、その「ヤバい」とされた作品や作家の方々も、

しっかりとした基盤の無い中、なんとなく着地点が掴めず、

彷徨っている感は否めないのも実情に思う。

このような、作品群をどうのような流れをつくるか、つくらないかで、

ものづくりをしている方々の生活にも多少の強弱が産まれるのだが・・

あまり揺れてほしくはない。

障害のあるを、片山は「人」と訳している。

そもそも、訳す意味は無いのだが

障害にだけ、クローズアップされても、なぜか疲れてしまっていることに

気づいての、「ただの人」「普通の人」「人」である。

でも・・・180度違う角度で考えると、片山は現実に、障害のある方が通わなくなると、

スタッフをしっかり置いた場の機能は果たせなくなる。

それでは、作業所以前の場の作り方に戻ってしまうのである。

最近、福祉施設は本当に必要なのか、まで、考えている。

確かに、必要なのだが・・・

障害福祉サービス事業を生業にしている以上、「障害者」と対峙することに避けてはいけないような。

対峙する事で産まれた言葉が「人」ではなく、

自然に「人」と思っているだけなのだが。

そこに「大きなミソと溝」が存在するような気がしてならない。

 

時間をかけて作品を観、ただただ、「ひと」がつくったものだな〜と実感した。

ん〜最近すべてが、「大袈裟に」なってないかな〜。

「大袈裟に」することで、変な付加価値や社会的価値観を強いてはいないか、

利用される方は、しっかりとした意思と意見を備えている

共に磨き育ちたいな〜と心底思う。

今後、元気のある、福祉施設の方々が「したいことに」圧倒的に強烈に

共感を抱いた、利用される方々がたくさん増える事を望みたい。

 

なんか、こうしよう!!!とか

こうしてます!!!とか

「大袈裟」なような。全てが。

そんな事を、フラットな気持ちで描かれた、

フラットではないかもしれないけど描かれた、

「ふつうな佇まいの」作品を見ながら、感じ教えられた。

 

施設をなくす、自信は今の所ないが

施設を減速し、ちっちゃめにする自信はある。

福祉施設のメリットは、利益追求ではなく、

加速と減速がしやすいのが利点。

 

福祉施設は疲れたと、言ってくれたら、

もっと道はひらけるのかも知れない。

 

などと、戯言を。暑さのせいにてご勘弁を。

 

とても素敵で「ふつうな佇まいの」作品を観ながら、

その奥のその奥の

描いた方々を、想い浮かべながら。

 

 

 

しんかわ