美学は小さじ一杯程度の微学に通ずる

片山工房として、特段にシンプルに事業を進めている。

極少な事業の中から、生活介護事業という、名で社会に機能をはたしている。

新年度をむかえる時期、総合的なスキーム「事業計画や事業報告、決算の状況から来る、

予算(予測と推測)今年度行う、事業の予測と予定を思案している」が、

その前に、強度に制度下と片山工房とが常に対等対峙している。

かなり水面下だが、僕としては水上にある。

 

片山としては、当たり前であることが、制度に統合統制しにくい現状。

ただ、利用される方、お一人お一人には必ずではないが、

少しだけでも満足を頂いている方が、続けて通われてくる。

 

これに関しては、福祉制度下で戦うべきものでもないのだが、

個別のニーズを、今、究極に補う「所・場」を失うと、

制度を変える知識も実体験からくる「ことば」も「意味ある連鎖」も何もうまれない、

産み出されない。イシューの芽が出ない上、決定的に育まれない構造化に陥りやすい。

 

etc。

 

法にのって、今の事業がなされているが、

片山の方式は、同業種の中でも、そのまた同業種の玄人の方々にしか分からない、

繊細な事業を毎日、連続性を持ちながら維持している。

常に、「初もの」が多い、故に行政の方との対話も多い。

「初もの」が通る時もあれば、通らない時もある。

そんな事を、繰り返し繰り返し、耕し地ならしを行っている。

こんな小さな工房が、どこまで行えるのか。今、資料を作成しながら考える。

 

作品展やその他の事業の、もっと前提にある、障害福祉サービスとしての立ち位置と存続維持に、

力を奪われつつあるが、それもまた良しと心得。

違う感覚で収穫になっている。

大きいところ(場)は、大きいところ(体制と資金力)の、良さがある。

街中で動くもの(小さな場)として、特性(コンパクト)は、

みなさんが、色々柔軟な姿勢で事を進めている。

ただ、今後、小さな場が少しでも、個々のニーズを真摯に受け止められやすい器を

形成することが、通われる方やご家族、従事するスタッフの未来も想像できる場と、

通われる方の一日を納得できる豊かさになるよう、10年後20年後、30年後、

この考え方や発想が、ベストでなくとも、

片山の事例があることで、余計な力を使う事無く、事が円滑に運ぶ事を望み、

地道で丁寧な、行動と言葉を選び進めている。真っ直ぐ事業に専念することで、

すべき事をリテラシーでき、対峙する対象を、「ひと」にもっと向けることが本望。

 

残りある時間に、確かな現実を実感し進めたい。

 

本事業は「足りないようなものを足している」のでなく、

明らかに、足りないものも「ある」と言うことに実直に実行しているだけであって、

声をあげるのは「ご本人」でしかない。

存在する事が「伴奏者」として最適ではないかと。

 

0足す1は1。1足す1は0に過ぎない

 

ありきたりの表現だが、大空に夢を。足下に努力。

 

僕は、あまり運動的ブレインは好きではないが、結局のところ、北風と太陽のように、

小さじ一杯程度の現実を変え実現して来た片山スタイルは少なからず維持しようと思う。

変化の中にこそ、答えがある事をしんじて。

地の味は決して地味ではない。

 

 

 

また、とりとめのない、長文お読み下さって、ありがとうございます。

 

 

 

 

 

次は、笑える話でも書きますね。

 

 

 

 

 

 

しんかわ拝