現実であるか・のような借景

 

片山は2階を借りて、半年が過ぎようとしている。

あわただしい中ではあるが、スッーと存在している。

このスッーとがとても心地よい。

 

2階からは、窓越しに、大きな木の葉っぱが風に揺られながら

そのスッーとした中に調和され、存在感を示している。

 

それを愛でながら考える。

 

借景の意味より、借りることの深みを感じている。

借りること、借りたくなる、かしてほしくなる存在とはなんだろうと

現実的な話だが、かしたくなる「存在」は、

社会や世の中で意義と意味が「存在」するのではなかろうか、

投資もそのひとつのように思う。

かして育てたくなる「存在」は

信用と信頼を得ている「身体」になっているに違いない。

 

何を宿すかはその人それぞれだと感じているが、

宿したものに「借景のごとく」使用したい

「身体」を身につけたいものである。

 

借りてでも必要な、借りられていることも分からないが

とても魅力ある風情ある存在をスマートに構築したい。

 

今日も、少しの間、現場と言われる「創作場」に佇んでいたが、

なんとも言いようのない、スーとした風が流れていた。

これは維持したいと思わせるなにかがある。

もうこの空気感は、スタッフと利用されている方々のおかげでしかない。

 

このような場を、末永く続けようと思うと、

現実との対峙を繰り返し行うことが必要不可欠となっている。

 

キーは

 

「考える創作場」「育つ創作場」がスマートな場になるように、

少し経済的なはなしの流れで、ギャップ気味に示のであれば、世界に目を向けると、

インダストリー4.0(第4の産業革命)なるものが、本腰でドイツで進んでいる

とても興味深く常に捉えている、端的に言うと「コストのスマート化」を

国レベルで産業印で押し進めているのだが、

今(日本)の医療や福祉の財源についても、とても複雑化した個と個のなかに、

つながりを示さずそこに財源がつなぎ役として存在している、

その方式をつむいでいては、ネットワークの弱性が、つながりの鈍化となり、

片山方式としては、スマート化の舵をとりにくりのが実情になっている。

 

ライン生産(水平的)セル生産(垂直)ではなく、

折衷式のダイナミックセル生産が産業的でありながら、

福祉と医療分野にも「考える頭脳」として必要となる時代の幕をあけるのではないかと思う。

たとえが少々分かりにくく、申し訳ないのだが、また、じっくり書きたいが、

と、ここまで話していくとかなりの脱線なのだが。。

 

実は、借景とは、ひとつのものがしっかりと存在したことで、

優雅に風情ある姿になり、

借りたい存在が社会や世の中が必要とする「姿」ではないかと考えている。

 

毎年4月に、ドイツのハノーバーで世界最大の工業見本市

ハノーバー・メッセが開催される、業種は違うが

おなじ「つくり手」として、想いを馳せる。

 

 

 

 

現実に、必要なものが「ある」ことが前提として。。

 

 

 

 

 

 

窓ごしの、木々を眺めながら

 

 

 

 

 

しんかわ