家族の残像

 

1月17日の震災の記憶を忘れない為にも必要だと思いまして。

滋賀や奈良の敬愛する方々から、びっくりしましたと記事が送られ

僕も今日だったんだと。

毎日新聞、2018年1月10日付の朝刊に奥さんと子どもたちが。。

1.17当時の記憶は、最初で最後の、

ほっぺを抓ったのもこの瞬間で、ひょっとしたら、

あの時自分は亡くなっていて、

今は違う次元で生きているかもしれないと、

いまでも真剣に思う事があります。全ては夢幻的だと。

 

1995年1月17日。

ドドーとゴジラが歩いたか、

隕石が落ちたか、それくらいしか考えられない衝撃でした。

日が明けた頃には、

あたりは倒壊した家屋と炎に包まれた町並み、

太陽が黒い煙で薄暗い赤色の顔を覗かせ、

戸惑う人たちが、いつもより白みがかった顔も覗かせ、

明日には、この嘘が分かり、もとの町に戻ると信じていました。

 

1月18日。

教科書でみた

戦後の切り取られた一枚の写真が目の前にありました。

体験型のテーマパークにいるような、

でも、終着駅は学校での避難生活でした。

それから、23年が経った今も、

自分が住んでいた場所にたどり着く事なく、

結果、それは意地で、自分の場所をつくる原動力となりました。

避難生活は、バブル時期の日本に、

ポッカリ穴が空いたような、次元の違う、

営みが存在し、人しか残ってませんでした。

マイナスから始まった歩みには、

人と人、そして「人と人」

それが「人の生きる人生」だと感じました。

そんな時に奥さんに出会いました・・

 

この記事は、道岡記者の丁寧な聞き取りから、

しっかり構成された文面に仕上げて頂き感謝しています。

毎年のように、奥さんや僕にこの時期取材以来があります。

でもいつもは、なぜか丁重にお断りを入れておりました。

今回の想いは、震災の記憶がどんどん薄れて行く中で、

人は忘れる生き物、

だから忘れてはいけない物を残したいと、

奥さんが子どもたちに伝えたい一心で取材を受け入れました。

記事にすれば数千字で終わってしまいますが、

とても長い時間をかけて記憶をたどっていきました。

 

僕の避難生活は6ヶ月

奥さんは1年以上に及びましたが、

そのとき感じた事は、

「大きな強さは、弱いものに流れる」

それを20歳で知り。

「強くなったものは、より強いものと戦う」

ことを心に刻みました。

そして、感謝と安定はないことを学びました。

 

今回の新聞掲載も、

お恥ずかしい文面ですが。。

 

何かを伝えたい一心で。

 

実は、この写真のその場が、

お母さんとおばあちゃんが居た場所。

今は、たくさんの子どもたちの遊ぶ場になりました。

 

 

 

 

 → 毎日新聞デジタル版の記事です。

 

新川修平