2色の葡萄

 

我が家の朝食は慌ただしい。

高校生の長女から小学生の次女、幼稚園の三女とみんな音色が違う。

いつもの光景ではあるが、みなギリギリに身支度をする。

 

奥さんが、2色の葡萄を出した。

「赤いのでも、青いのでも良いから、食べていきなさいと」

次女が、「それ、紫色と緑色やで、と」

そのやり取りが、なぜか僕の頭にのこる。

 

昔、何かの授業で、黒・白・赤・青が基本的な色調だと聴いた事があった。

それは、文化的な事もあるのだろうが、黒い・白いなど、

この4色は形容詞としても用いられる豊かな「ことば」のように感じていた。

青毛の馬や、昔の馬には、アカやアオと言う名前をつけられたように。

 

話はもどるが、奥さんが話した、赤いと青いはとても大きく捉えてはいるが、

代々受け継がれて来た、豊かな感性のように感じる。

確かに、紫は紫、緑は緑なのだが、もっと大きな意味のグラデーションが存在し、

色を仕切るのではなく、全ては滑らかにつながっているもののように感じる。

多分、しっかり調べれば、良いのだが、

自然のものを色に表して来た文化が美しく、目が肥ゆる。

 

その中でも、良い意味の「曖昧さ」が決めつけては行けない、

グラデーションのように思い、整理するという感性は一つの色を的確に出すだけではなく、

紫のものを赤に感じ、緑のものを青く感じることではないかと。

これは、「大雑把な視点」ではなく、

人と人が保つ、色んなことを受容する目「大きな整理」につながるのではないかと解釈している。

この辺りのお話しは、みなさんの方がお詳しいとかんじながら。。

 

なぜか、僕の中で全てをシンプル且つ包み込む、

この表現を「大切な感性」として受け継いでいきたいと思うのです。

 

しんかわ