障害のある無しに関わらずなら、はじめから人と言えばよい

 

 

最近特に、片山工房に来られる方や質問で、

「障害者アート」について聞かれるので、一応ここで発信しようと思う。

 

そもそも、片山工房が15年前に始まったとき、

澤田隆司と何か面白い事をしようと、

動く右足を使い紙コップに入ったペンキを蹴って、

画用紙に垂らした模様を楽しんだ。

それが、何かの巡り合わせか、

澤田隆司(障害者)+画用紙の模様(アート)

=この(  )の部分が+され(障害者アート)となったわけだ。

この(  )が全面に出た時に社会は納得という必要性を感じる。

 

澤田さんが作ったというより、

(障害者)こんな事も出来たとか、

こんな特殊なものをかいた「ひと」が「障害者」だと、

物語が増すのである。

 

確かに特殊で想像もつかなかったもの、

衝動的に描かれた心惹かれるもの、

幾何学的で誰にもまねが出来ず尚かつ心奪われるもの。。

数々の痺れる作品は無数に存在する。

 

でも、それが、社会的に障害者と言われる方々が作ったものだけなのか、

とても疑問である。

美大生に限らず、時間を要するが、

自分の家族の中にも存在していないか確かめるべきである。

ただこれには、それ相当の生活の中に現れ、

その背景を考慮すると、現時点でだが、

福祉分野に点在していることにもなる。

 

福祉分野が障害者アートを担っている訳ではなく、

障害者の生活に福祉施設が密接に関わっていることも要因の一つである。

フォーカスが、社会の中のシステム上、

障害者にクローズアップされ、

その行為の現象が「特別であればあるほど」美的にも刺激される。

だんだん書いていくとむつかしい方向に行きそうなのだが、

例えば、幼稚園児が描いたものを、「園児アート」

サラリーマンが「サラリーマンアート」

お年寄りが「老人アート」とは言わないが、

僕が骨折をして身体が動きにくくなり、

尚かつ障害者手帳を持つ事で「障害者アート」に変身するのである、

ここで言う障害者手帳を持つには、

社会生活の中で福祉サービスがスムーズに

受けやすいようになる法的なものであり、

障害年金になるともう少し意味合いが変わるが、

現時点で法的・社会的に障害者「障害者基本法第2条第1号」であるには変わりない。

 

でも、ここが今回の「ミソ」なのだが、

僕の知り合いの多くに手帳を持ち、

障害年金も支給されながら、

「障害者なになに」に属さない人がたくさんいるのも事実である。

 

では、社会的角度から何が障害者とアートをつなげ、維持しているか。。

それには「障害者とアート」の土台は

「公的・租税」障害者の芸術文化活動(厚生労働省)

障害者芸術文化推進法(文化庁)に含まれ、

結局のところ「公的」「租税・税金」をもとにした

縛りの中に存在している以上は、

名称として「障害者芸術」を切り離せない、

社会参加の活動としても存在し、東京オリパラまでは、

年間数十億計上されながらの適度な安定感を有しているのも事実であり、

障害のある方々が芸術活動を行なう場として、

この「租税」が「障害者」とコミットしている以上、

市民に分かりやすい名称は生き続ける。

これが少々むつかしく解釈した形であり、

一般市民には普通に浸透している形でもある。

冒頭に書いた、(  )は公的の重みが名称なるシーソーの偏りになる。

 

ここからは、私的な解釈だが、

僕の役割は「滑らかに重ねる」ことを責務にしている、

これは、俗にいう「障害のある人ないひと」の

お互いが重なり合う層を滑らかに圧をかける

「必ず差はある」がこの圧が一枚板の大きな社会となせば、

あたりまえのステージが存在すると信じている。

 

障害者アートの存在すらナンセンスな市場が存在し、

「絵を描く人」として歩むに違いない、

当の本人はそんなことすら意識していない

「障害者アート」周りがその存在の「型」を作ることで、

納得する魔法の言葉。

 

ま、使う方は使えば良い、メディア然り、

でもこれからの若者には感じてほしい「この違和感を」、

公的な障害者芸術・文化の言葉が、

今後、芸術・文化に変換されるであろう。

 

福祉とアートは、決して生産性のある工場と化してはいけない、

人それぞれ皆違う思いで過ごされている、

丁寧にその「かすかな声」に耳を傾ければ、

答えは自ずと出てくるものである、

生きにくい世界を作っているのはひょっとしたら従事者であり、

その構図を担う御上かも知れない。

 

いつも、キャラメルを一粒くれる人がいる。

その人も社会的には障害者アートの一員とす。

 

 

嗚呼、これからの若者たち「違和感を突き破れ」

 

 

僕は人が軸とは言ったが、障害者が軸と言った事はない。

そこに全てが集約されている。

 

 

 

しんかわ