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失うことで「均衡する」
まあ、エッセイ風になるのか分からないが、得ているものより失うことが多い、
44歳なのだが、42歳くらいからギラギラした感覚を失った風、
挑戦を失い平安を得た風、ワクワクを失い不安を得る風、
そんな心境で2年ばかし来ていたのだが、
あるとき、ふと障害って、福祉って、
アートって、生業って、社会で対応するって、
もがくって。。なんなんだろうと感じていた、
15歳くらいに社会の敷いたレールから脱線したのだが、
その時の開放感と明日への絶望感をまじまじと、
いつも手のひらをみると感じる。生命線って何処だっけって。
長女が15歳になっていて、とても社会と共存している、
素直にすごいなあと関心し、ある種の達成感をまじまじと凝視する。
言葉は悪いが、日々生きることは刻一刻と生命を失っている。
人は生き抜くため、生ききるために議論し解決し
自分自身のよりどころ(存在意義)を確保するため「持論」を武器に立ち振る舞う。
先日、障害者芸術の入門と言うタイトルでトークをした。
これに関しての報告は次回にしたいが、
そのとき感じたことは「まじまじと生きる」これに尽きる。
ある方はそれを「自己満」と言い放った。
人は誰を意識し、誰に影響され、誰に認められ、誰と暮らすのか。。
ながい目で見た時に、その起伏が平坦であればある程、満ちるのではないか。
失うと言うことは、自然に平坦に戻ることであり「均衡する」
幸福とは「均衡」が寄り添う言葉のように感じる。
最近ラクになる言葉や、あえて逆説を唱えられ、
楽にさせてくれようとして頂けることが多々あるが、
その一時の開放感よりも、
明日への絶望感が生きる証明であり、
「均衡」であることに、じわりと気付いている。
絶望感とは、望みを絶つと書くが、
これが本質であり「まじまじと生きる」につながる。
ま、失うことは、みちること。
とうとう何か掴めて来た感はあるのです
また、書きます。
しんかわ