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障害者芸術の入門(感想)
障害者芸術の入門と言う、なんとなくむつかしく、なんとなく堅いタイトルだが、
今年度の最後のトークイベントとして、登壇させて頂いた。
はじめにどう書こうか考えたが、
まだ、咀嚼出来ていないせいか、
文量(重さ)を軽くさせて頂くことに。
司会は、堺健康福祉プラザの大内秀之くん、
登壇されたのが、女優でダンサーでもある森田かずよさん、
このお二方とも、表現を主軸に活動をされていることもあり、
なんらかの答えが出るかも知れないと話がはじまる。
14時にスタートし、ありがたいことに当初より大幅に人が来られた。
本題である、障害者芸術だが、
そもそもあってないような言葉のように感じている。
障害者が芸術で障害者芸術という枠の狭いことでは、
ないように思いながら時間が過ぎていく。。
とても印象に残ったのは、お二方とも、自分の行なっていることを、
至極普通に話されている、
大内くんに至っては、自身のボルダリンクでの経験や挑む気持ち、
バスケットボールでの想い、
体脂肪率7%などアスリートとして確立した姿勢を維持している、
森田さんは、色々な葛藤や困難な状況から自分と対峙し、
自身の気持ちを偽らず前進されて来られ、
ダンサーや女優という表現を確実に手元に置いておられる。
僕の話は、終始このお二方から伺う「人の熱量」を感じ取り、
今回のタイトルである「入門」を探っていた。
その中から、感じたことは、
そもそも「入門」とは、将棋みたいに教えを請うものではなく、
自らなにかを発する、自らなにかを求める「心構え」が
原点でありスタート地点だと解釈している。
制度的に「障害者芸術」のフレームにはめ込んでのお話しではなく、
奇をてらって障害者が芸術すれば障害者芸術っておかしくないですか、
人がしてるのだから。。みたいな感想でもなく。
すべての生きる場は、物理的、社会構造的での障害のある中での葛藤や挫折があり、
その中から産み出される「普通の熱量」とは、
人それぞれが持つであろう「努力」であり、
人が持ちうる「生きるを絞り出す」と言う信念と行為ではなかろうか。
今回の「障害者芸術の入門」には、ほど遠かった返答かもしれないが、
人がなぜ表現を行なうかは、
この「生きるを絞り出す」作業がなにであれ、
「芸術の入門」に近いように感じてならない。
まだまだ、未熟ゆえ、お越しになられた方々や、
このお二方にはご迷惑をおかけしたかも知れないが、
この「入門」を常に意識して行きたいと思う場であった。
この度、この場を用意して頂いた、
関係者ならびに、気に留めて頂いた方々とスタッフに、感謝を込めて。
そして、大内くん、森田さん、良い契機でした。
現時点では、まだ整理出来ていないが、
今後の歩みの中で必ず必然であったことを痛感する時期が来るだろうと。
しんかわ