障害者と健常者をおもう

 

世の中は、平成最後の日なのだが、片山は開所である。

別に平成最後ではないが、この日曜日に母が退院をした。

大腿骨を人工関節にと取り替えた、入院は1ヶ月で済んだのだが、

リハビリや諸々でこれからが正念場と言う事だ、

その時病院から、障害者手帳の交付を進められた、

役所に行くと、期間限定の障害者手帳を交付された、

期間限定とはリハビリで元の身体に戻る事を指す、

現時点では、母は今、障害者である事は事実であり、

公的に返納すれば、健常者に戻る。

 

ふと思う事がある。

 

母がリハビリを頑張って、健常者に戻る

障害者が頑張って、作った作品(生きる)

 

この頑張ってには、全く違う要素が込められている。

それは、本人主体か他者の見解かに関わっている。

 

はたして、絵を描く事は頑張っているのだろうか

はたして、仕事をする事はがんばっているのだろうか

 

母の頑張りには「意味」が存在しているが、

障害者の頑張りには「他者」が存在している。

 

ここが、大きな視点であり、

社会的な観点からすれば「盲点」なのではなかろうか、

何に頑張るかはその人次第であり、ひとが関与する必要もない、

母の頑張りは母のものであり、

障害者と言う大きなフレームが「個人」の存在を消し社会の都合と密接に関わりを持たされている。

 

 

働くもそうである、何をもって障害者の働きをかんがえるか

国民の三大義務に照らし合わせても、ナンセンスであり

国民は三権分立の「三すくみ」の中で存在している、

独占でない権力がバランスを保っているように、

障害者の働きを存在に変換したとき「障害者の生き方」が社会の構造に示す事で、

動線的には生きやすく分かりやすい、

極めてシンプルな地域性を産むのではないかと、

そう考えれば「生ききる」事こそ、

障害者から学ぶべきものは豊潤に存在している。

 

社会の盲点である、ヒントが障害者である方々が存分に蓄えていると考えると、

これは働き以上の価値であり、「生きる」ことにこそ価値がある。

こう書くと、何も出来ないからかと思われがちだが、

人を見出す社会の「豊かさ」が足りていない事を吐露しているに過ぎない。

 

障害者と健常者を分ける必要はさらさらなく、

「人」である以上、同じ国民である以上、同じ世界を歩いている。

只、生きにくい事は事実であり、根が深い事も事実である。

根底にある歴史や、現代社会の営み、

これからの「人」に対する挑戦と試練でもあるが、

目が見えにくいから、耳が聞こえにくいから、身体が動きにくいからと疑似体験をして、

その方を思うような浅瀬ではなく、

本来持つ「人」のイマジネーション(ものを想像する)力を培ってほしい。

 

人が軸で進んで来た、片山工房は今後も一貫とする。

 

障害のある方を障害者とあえて記述したことは、

そこに時間を費やす社会ではなく、本質を動かす「力点」を探してほしい。

 

まだまだ、未熟な私や工房ですが、

本来あるべき姿と本質を考え、

次の元号に挑みたいと100年福祉会として愚直に思う。

 

 

 

本当はどっちにおぶられてるのか。

 

 

 

しんかわ