誰もやらないからこそ自由があり価値を見出せる

※ 移転開所当時の片山

 

 

いつもと違う朝。片山工房を率いて、16年目にして初めて、

9月30日(月)、そう、月曜日を限定で開所した。

たまに要望があり開けたことはあったが、事業として正式に開所した日である。

 

これから、何度か開所はするに連れて、みなさんにアナウンスしていくのだが。

スタッフの流れや、要望、確かに収益事業としても

「自由」を取れば取る程、「お休み」も多くなり、

必要性は感じるが、開けても月に1回〜2回か。

 

そもそも、片山を利用される40名近い方々のほぼ9割の方は、

他の事業所や施設利用を併用して、

片山と言う場を「選ばれる」

この「選ばれる」が本丸の軸となして

基盤を形成している。

 

今でこそ、障害のある方の「絵」「表現」「創作」として、

小さな世界の中で、周知はされているが、

原点原動力は「人」そして、その「人が生きる」どうしたら、

自分の根っこにある「生きる源」を少しでも開花できるか、

「生ききる実感」を感じて頂けるか、

それは「その人」を取り巻く周りの方々にも感じて頂くことが出来るか、

日々の地道な活動(活きる動き)を積み上げながら、

自分の出来る、楽しいをルーティーンとして築き、

日々の生活に活力を継続出来るか、

そんなことを考えている。

 

根本の「その人の考え」は「その人のみぞ知る世界」を邪魔しないよう、

北風と太陽ではないが、

或る一定の距離感が「自由」を創造するのではないか、

あれをしたらダメ、これをしたらダメでは、どこの機能も低下する、

ましてや、したくもないことを、低い成果を軸として、

毎日を生活する程、苦しいものはない。

 

安全性を高めながらも、

これ出きるんじゃないか、これやれますよ。

出来るだけ、芸術性を高めるよりは、

好きを高めたい、そして「ダメを排除したい」に徹底している。

 

全ては、分かって「それ」を行なっているか。

全ては、分からず「それ」をただ行なっているかで、雲泥の差が生じる。

 

片山の今後の展開として、安心安全はもちろんの事、

その方々がこれから「長く生きる」うえでの

「武器と根っこ」を自分が知り皆が知る。

それを持って、社会と付き合うのではなく、社会と向き合い、

自分の自由をつかみ取ってほしいと切願する。

 

僕たちが出来る事は、素直に思う事は、

小さなことだが、

どんな人も包括的に認め(この姿勢も胡散臭いけど)受容する姿勢を

「無意識」に保ちたい。

 

そう、「無意識」に福祉や障害を胡散臭くなく、あたりまえのように。

「無意識」がとても大事。

 

「無意識」は「良質な意識であり」

「意識」は「答えを求める圧を周りに与える」

 

意識的の「福祉!」は、結果的に、だれに光があたるのかは一目瞭然である。

 

「共生」も然り、誰目線で共に歩もうと進めているのか、

共に生きるのではなく、「すでに森羅万象すべて生きている」それ以上なし。

 

 

最後に、片山工房は確かに「絵」もある、

その「絵」も世界に飛び出すかもしれないし、

社会に広がるかも知れない、それはそれとして「人を育てる」

 

ただもう一つ大事な事は、

現場を知って要る以上「頭で考えるのではなく、生活の一部として身体に染み付いてこそ」

本来あるべき「人の求める」姿がかすかだが理解している、

それは「とんでもなく地味でとんでもなく清い」

今日来られた方々も、自分のリズムを大切にしている、とても素敵なことだ。

ひとりひとりによって、成果(ある意味)は皆違えども、

そこに「これからも場が存在し続ける」を100年福祉会とする。

 

 

 

小さな挑戦はつづく

 

 

 

 

新川修平拝