大局と小言

 

ふと、空をみる、アスファルトの道は長くとも、土を覆っていることに気付く。

手を洗う、水が手を避けて流れ落ちる、顔を洗う、手が水を自然にためる。

 

相応にして、人は自分の安心を手に入れる為に「小言」を活用する。

それは得てして、他の人の「成長」を妨げることもある。

片山工房は「小言」を極力無くした、

その分、的確な大局観を備えなければ、「小言」を無くす行為を認識出来ない。

 

安全とは何か、それは極力「規制すること」=「芽を摘むこと」に相違する。

 

自分の意にそぐわないことは、すべて「違う」となっては、

なにもそこには未来は築けない。相手を信頼すること、

それは自分が大局の筋道を理解しているか、

その人にその明日が開かれるように手を抜いていないか、

今現在の「素行」が意図しなくとも、

その素行を持って「人生の経験と成す」広い視野を懐に偲ばせているかが、

その方々の「出来る」をみいだせるのではないだろうか、

手を抜けば抜いた分だけ大きく回って自分に還るように。

 

昨今のコロナ事情もそうだが、

俯瞰で理解しているかが目に余る背策とならないように開眼してほしい。

 

 

人のやる気とは、気付きに近い、コミュニケーションと議論や批判、

批評など、人の持つ「考えと発言」に注視し、

社会や場や人が「聴く」

そして良い部分は「聞き入れる」姿勢が小さな小川をつくり、氾濫を回避する。

 

大局を今一度、目を閉じて考えたい。

もう一度自分に問う、それは自分だけの安心を得る思想なのか、

それとも人を考えた安心なのか、「大局と小言」。

 

広い心と近い視野を両輪で保ちながら、

然るべき時に然るべき道が開くと確信している。

 

水は低きに流れる、澄み切った源流のほとりを歩みたいと。